「伝えようとする気持ち」

ゆみ

高度難聴の息子に、「手話を」と思ったのは、息子が1歳になる頃だったと思います。

出生後、呼吸が安定しないために救急搬送となった息子は、そこから3ヶ月入院しました。その時、軟口蓋裂や、後鼻腔狭窄などの多発性奇形と、難聴が分かりました。染色体検査をしましたが、診断に至る疾患は見つかりませんでした。

そんな息子の発達は、私には不安で仕方ありませんでした。母乳もミルクも飲めず、経鼻経管栄養といって鼻から胃までチューブを入れて、ミルクを注入していました。経管栄養の子によくあることですが、息子も嘔吐が多く、注入回数の調節、嘔吐の処理、注入器具の洗浄…。私の日常はそれに追われ、心にも時間にも全く余裕がありませんでした。身体的な発達は遅めでも、大きな問題のなかった息子は、段々と動くようになり注入のボトルを持って息子の後を追いかけて注入したこともありました。

聞こえのことは二の次…の生活でしたが、息子が1歳になる頃、療育先を決めるよう耳鼻科の先生とSTの先生から言われました。私の住む地域で通える候補を2つ紹介されました。その一つがろう学校の乳幼児教育相談でした。もう一つは市の難聴児の通所施設で、定員いっぱいのお子さんが通われてる…とのことで、まずろう学校に見学へ行きました。

息子と私を迎えてくれた先生は、乳相と幼稚部のお部屋を案内してくれました。幼稚部の子どもたちが、普通に走り回って遊んでいる時間で、「赤ちゃん!かわいい!」「お名前なに?」と手話で話しかけられたのです。子どもたちの手話が分からない私に、先生が息子の名前を教えてくれると「あ!いるよ!同じ名前!」と息子と同じ名前の男の子を連れてきてくれました。

私は息子が生まれてから、ごくごく普通の子育てをどこか諦めていました。こんな普通の、何気ないやり取りが、この時の私には涙が出るほど嬉しかったです。聞こえない子どもの生活に、手話がもたらす深い意味はまだわからなかったけれど、この時に温かくて自然な雰囲気のろう学校に心をひかれて、乳相に通うことを決めました。乳相では手話…というより、「聞こえない子への関わり」を教えてもらったと思います。後ろから抱き上げたら驚くこと、驚くことが増えると不安が強くなること、本人の安心のために、何をするにも「○○するよ」と伝えてから行動に移すこと。それは、手話だけでなく「見てわかる」ことを前提に。実物でも、写真でも、絵でも、身振りでも…。さらに、どうしたいかを本人に聞くこと。乳相の先生は、おやつの時に飲むお茶のコップも、毎回息子に選ばせました。コップの色が全て同じであっても聞きました。「青がいいのね」「真ん中がいいのね」と息子が選んだコップを、先生は手話で丁寧に返してくれました。2年間乳相に親子で通い、息子は経管栄養つきでしたが、幼稚部の重複学級に入学しました。

息子には手話が必要…。そう思うようになったのは、幼稚部1年の終わり頃です。幼稚部に入ってから、私はろうの先生が開く手話の学習会に参加していました。ろうの先生の表情の豊かさと、手話の表現を見ていると、「なんでこんなに分かりやすいんだろう」と思いました。学習会のおかげで、私からろうの先生に話しかけることが増えていきました。ろうの先生はいつもホワイトボードを持って歩いていて、手話がまだつたない保護者相手にも、文字を書いたり、絵を描いたりして丁寧に対応してくださいました。そのコミュニケーションスキルの高さに、本当に驚き心から尊敬しました。そのろうの先生は、息子が幼稚部2年の時に担任となり、息子は驚くほど表現の幅を広げていきました。私も息子に負けまいと、必死に手話を学びました。

幼稚部には、見て分かる、安心できる環境がありました。そして、手話で経験やその時の感情を表し、共有できる先生と友達がいます。手話をベースに、絵でも、身振りでも…「伝えようとする気持ち」を大切にしてくれました。

息子の経管栄養は幼稚部1年生で卒業となりました。しかし、発達面はやはりゆっくりで、小学部4年となった今でも、手話なら会話がスムーズか…と言ったら、まだまだそうではありません。息子は家の中でも学校でも困った時、分からない時はスケッチブックを取り出し、絵を描き手話と身振りで伝えてきます。そして、家族も学校の先生もそれに応え、手話で説明し、絵を描き、文字も添えます。これからも、手話と他のあらゆる手段を使って、息子の「伝えようとする気持ち」に応えていこうと思っています。

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